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My Blog by mama


by pubfujiya
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今は昔・・・松竹こぼれ話

今は昔・・・松竹こぼれ話_c0070093_18203491.gif秋も更け行く11月半ば、たまたまた大船の町を見渡せるところに4,5日ステイする機会に廻りあった。
普段に生活ならまだ宵の口の10時頃、賑やかとまでではないが、大船の町にもネオンが色とりどりに輝いている。
私の青春、人生のほとんどをこの町の夜が飲み込んだ。数々の名作映画を生み出したこの町で、商売を始めたのが、22才の終わりの頃だった。7,8才の頃、映画「二十四の瞳」に、ちょい役で来た以来、大船には縁がなかった。21才の時、戸塚で始めたスタンドバーが、高度成長の時期にも当たって繁盛し、翌年に大船で「ナイトパブ・フジヤ」を出すことができたのだった。恐いもの知らずの若さのエネルギーは素晴らしいものがあり、その後の苦労など予想も想像もすらしなかった。
心配ばかりする母を、逆に元気づけたり、無視したりしながらの、ゴーイング・マイ・ウェイであった。
華やかな撮影所の町と思いきや、大船に来て真っ先に受けたのは、やくざの洗礼だった。37年も前は今とは全く違い、やくざ、チンピラは町のいたるところにおり、ショバ代(?)を求めて、店にやって来てはスタッフに、いやがらせや脅かしをして行き、せっかく見つけた従業員もどんどん辞めて行った。でも私は決して屈せず、何かあったら警察へ通報・・・を繰り返して難関を乗り越えた。しかしそれまでは私も怪我もしたし、一緒に警察に連れて行かれもした。
お店はサントリー協賛の、キーボックスへボトルを入れると鍵をお客様に預けるという新システムのお店であった。今ではボトルキープは当たり前だが、当時は、なかなか新しいものにお客様が馴染まず、閑古鳥の日々が続いたが、商いは飽きないと信じて頑張ったものだった。
しかし、しばらくすると、ボトルキープのシステムは、一人増え、二人増え、やがて友を呼び、キーボックスの空きはなくなった。この頃から、女性がお酒を飲み始め、バー、キャバレーといった女性を置く男性専用の酒場が少なくなり、女性と一緒に楽しめるカクテルラウンジとかパブとかが出来始めた飲食店の過渡期であったような気がする。

その頃大船は松竹のテレビドラマの制作が盛んな時であった。町の中で撮影もしばしば行われ、私の店も松竹から近いこともあり、頻繁に撮影に使われていた。今でもたまに古いドラマをやっていると、「あれっ、見たことがあるな・・・」と思うと、昔の内装の時のフジヤだったりする。俳優さんも数多くお見えになった。その素顔はドラマのイメージとはほど遠い人が多い。松竹が失くなり、後に出来た"鎌倉シネマワールド”も閉めてしまったので、古い俳優さんばかりだが少しご紹介しよう。
50代以上の方はご存知だろうが、天地茂さんと山城新吾さんと田中健さんのテレビドラマの打ち上げパーティをフジヤでお受けしたことがあった。クールなムードで有名だった天地茂さんは、全くお酒が飲めず、無類のカラオケ好きであった。コーラ片手にマイクハナサーズである。田中健さんもしかり! 山城新吾さんは仕事と酒席以外は無口!
しかし、この頃の俳優さんは、大勢の中にいてもすぐに目立つタレント性というか、きらめきがあった。
清水健太郎さんも何回かお見えになったが、非常に短気な性格らしい。カラオケが大好きだが、徳永英明以外は歌わない。店の従業員の一人が、「失恋レストランを歌って下さい。」と言ったら、「あれは、俺の飯の種で最高の環境で歌っているものだから、歌うのならお前からギャラを取るぞ!」とすごい剣幕だった。言っていることは至極もっともである・・・・が。
「寅さん」のさくらの旦那さん役の前田吟さんもよく寄ってくれた。必ず、女優さんの卵とかスチュワーデス、モデルさんなど同伴で、何だか彼女を見せびらかしに来ているのではないか・・・・ひがみっぽい人は言っていた。
近藤正臣さん大変おしゃれで気さくな方である。そして無類の手品好き! 会う人捉まえてはご披露していた。3,4年位前だろうか・・・・ハットにマント姿でスポーツカーに乗っていて、「ママさーん」と声をかけてくれた。
「上海バンスキング」を大船撮影所で撮っていた時は、松竹としては若い俳優さん達が集まり、町にも出たりして、大船の町に活気があった。風間杜夫さんは、本当に庶民派! 初めてお店にいらっしゃった時、酔ってカウンターで寝てしまい、私が起こし、「あら、あなたは風間杜夫に似た好い男じゃない!」と言ったら 「よくそう言われるんだ。」と言った。そのうち他の人が「本物だよ。本物!」  彼は店の娘ではないが、私が私が可愛がっていた娘に、たぶん惚れていたのだろう・・・・彼女と一緒の何度かお見えになり、熱々のチークダンスを踊っていた。
女優さんもお酒の強い人が多い。大谷直子さん、フルート奏者で女優の神埼愛さん共に、酔い方では豪快であった。
女優さんというのは、普段からちやほやされているからなのか、お酒を飲むと、何でもありの我ままになるタイプが多い。私は会ったことはないが、なにしろ松竹のスタッフに評判が悪かったのは秋吉久美子さんである。ロケでの我ままぶりは、ホテルの部屋の良し悪しから始まって大変なものだったらしい。彼女だけではなく、我ままな俳優は多く、映画監督も頭にくることもしばしばあるらしい。しかし、そこは監督の特権、ベッドシーン、体力を使う疲れるシーンなど俳優の嫌がることを、何度もNGを出してやらせたりしてストレス解消するということだ。
撮影で叶和貴子さん、夏木陽子さんも見えたが、共に大変美しい方だった。夏木陽子さんは背が高く、相手役に背丈を合わせるためか、イブニングドレスを着ても、足元はスリッパだった。
まだ、余り売れない頃のクールファイブ、狩人、瀬川映子さんなども来て歌ったこともあった。
島倉千代子さんの「人生いろいろ・・・・」の主題歌がヒットした「三婆」の撮影も朝から次の日の朝まで行われたこともあった。確か岩崎加根子さん、河内桃子さんなどが出演していて、女同士の取っ組み合いの乱闘シーンがあった。
「フーテンの寅さん」は、あれだけの数を撮っているのに、渥美清さんは見たことが無い。撮影所前のおそば屋さんには、しばしば現れたということだが・・・・ 彼も又、スタッフには、あまり良くは言われていなかった。体調がすぐれなかったのかも知れないが、仕事が終わるとすぐにグリーン車で帰り、スタッフに酒や食事を奢るということが全く無かったということである。山田洋次監督は、人の話をじっくり聞いて、悪く言えば言葉尻を捉えるようなタイプであったが、独特の美学があり、俳優さんもいつの間にか彼の美学にハマッてしまうようなカリスマ性があるらしい。渥美清さんも高倉健さんも、彼の作品に出演して以来、安売りをせず、イメージを守っている。
高倉健さんはお会いしたことはないが、映画のイメージと全く変らない方のようである。お酒は全く飲めず、もっぱらコーヒーだそうである。明治大学の学生時代は相撲をやっていたそうで、女性にも大変おモテになったらしい。江利チエミさんとの間にはお子さんは無かったが、それ以前の女性との間のお子さんがアメリカにいらっしゃるそうだ。倍償千恵子さんとの共演作が何本かあるが、ロケの宿では、二人は一緒のことが多かったと聞いた。口さがないスタッフもこの二人のことは、静かなお似合いのカップルと思っていたらしいが、それ以上の発展は無かったらしい。
私の子供の頃の松竹大船撮影所は、今の大東橋の所に門があり、守衛所があった。そして松竹通りと呼ばれるところが撮影所内の通りであり、季節ごとのイベントには、大道具さんが、吉原さながらに両脇の木々に、花を咲かせたそうだ。
今のイトーヨーカドーの前に「ミカサ」という小さなレストランがある。ここは昔、松竹撮影所前の食堂だった。当時のここの娘さんが、中井貴一、中井貴恵のお母さんであり、若くして事故で亡くなった、佐田啓二の奥さんであった。大部屋の俳優の卵と食堂の娘との映画さながらの恋物語であったそうな・・・・  ここのレストランの先代のマスターは弟さんで、そのお顔は、何となく中井貴一さんに似ていたような気がする。

その後もいろいろな撮影があったが、松竹も営業不振に陥り、やくざTVシネマが多くなって来ていた。主演の竹内力さんは大変素敵な方だったが、やくざTVシネマは私の性に合わず、撮影をお断りするようになった。

撮影所としての松竹は無くなり、社運を賭けて”鎌倉シネマワールド”として再スタートを切った。
1995年10月にオープンし、ピーク時には1日約2万人を数え、全国からの観光バスで、大船の道という道が渋滞したほどであり、近くのホテルや旅館は常に満杯で、私の店にも、地方からのお客様が多くなり、商売への期待が高まってきたが、しかし”鎌倉シネマワールド”は、2年で半減し1998年、わずか3年で閉館に至った。
不景気の真っ只中であり、大型追加投資が出来なかったことが原因と言われるが、テーマパークが陥る全ての問題を抱えていたような気がした。
いろいろなところに土地を切り売りした後であり、敷地が狭く駐車場も十分とはいえなかった。更に子供連れが楽しめる乗り物などの施設が皆無であり、デートコースにしては、目新しさと夢が無かった。そして、私の年代にしても、少し古い小津安二郎とか、木下恵介の世界といったものが多すぎた。
歌も映画も大ヒットし、俳優さん達も、若かった「上海バンスキング」などは、どこにも見当たらなかった。
「寅さん」の世界にしても、映画では興行収益を上げたかも知れないが、あの映画もあれだけシリーズが続くと制作費はあまりかかってはいない。セットも衣装も全て揃っており、ロケといってもさほど大掛かりのものはやってはいない。収益は上がるはずであり、ドル箱映画だっただろうが、しかしテーマパークの興味として見ると、セットも単純なものだし、見れば見るほどチャチなものだし、一回みれば「なーんだ・・・」ということになる。
テーマパークの一番の課題はリピーターをいかに集めるかということである。年配者は一度見れば二度目はそうそうにはやって来ない。来るのはやはり身軽な若者と子供連れである。3年間で延べ380万人が来たと言われるが、その中には、リピーターはほとんどいなかっただろう。

大船の町から、松竹は完全に消えた。当時はスポンサーに請求書を廻し、タクシーは何処までも乗り放題で、飛ぶ鳥落とす勢いだったプロデューサーの方々も今では、鎌倉ケーブルテレビ、松竹ビデオなどに移られたようである。

映画の世界が夢ならば、映画のような人生を送って来た私は、この大船の町をいつまでも愛するだろうと、町の灯を見つめながら、心の中でつぶやいた。
by pubfujiya | 2005-11-22 18:23 | エッセイ